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2013-06-16

地域通貨が社会のお金の一部として流通したら、世の中絶対よくなる〜第6回 はたらくインタビュー【物々交換局代表 吉田大氏】〜


吉田大氏

はたらく課の第6回目のインタビューは、特許業務法人の代表を務める弁理士でありながら、おむすび通貨を発行する物々交換局の代表も務める吉田大さん。足助に住み百姓的な暮らしをしています。そんな、吉田さんに“はたらく”についてお伺いしました。

―なぜ、弁理士を目指されたのですか?
小学生の時から「エジソン」が好きで、綿菓子マシーンやホバークラフトを自分で造ったりしていて、漠然と「発明家」っていいなと思っていました。高校3年生になって、将来何になろうかなと考えた時に、発明家になりたいと思っていたこともあり、書店で読んだ仕事ガイドブックに載っていた“最先端技術を守り、国際的に活躍する知的専門家「弁理士」”という職業紹介のキャッチフレーズにひかれました。

でも、自分のまわりに弁理士がいなかったので、その仕事が楽しいかを体験するために、自分で発明ネタを考えて、特許出願をしました。実際に出願をしてみて、「これは面白いと!」感じて、弁理士を目指そうと思いました。

―弁理士の資格試験は難しいと聞きますが、順調に弁理士になれたのですか?
それでまずは、弁理士になるために、大学へ進学しました。大学生のうちに資格をとろうと思っていて、夏休みに資格の取り方の本を見て、そこに書いてあった参考書が分厚いし、よくわからないことがたくさん書いてあって、、、、

しかも、インターネットも発達してない時だったし、まわりに弁理士の勉強している人がいなかったから、聞く人もいなくて、勉強も全然面白くないから、3日ぐらいで、「無理!」ってなって、諦めちゃった。(笑)

それで、残りの大学生活は遊んでばかりで、でもギリギリ3年生になれて、就職のことを考えた時、やりたいこともなかったし、大学名を言って就職することがなんか恥ずかしいなと思って、大学を辞めました。それで、親に「大学、辞めます!」って言ったら、「休学にしておけ!」と言われたので、とりあえず休学して、旅に出ました。

―ロックな生き方ですね!(笑)
それで、お金がないから、働きながら旅ができる方法がないかと調べていたら、ホテル住まいさせてくれて、しかも給料ももらえる、フランスのリゾート会社の拠点が北海道にあるのを知って、まずは、そこのホテルの現地ウェイターとしてバイトしました。リゾート会社からホテルに派遣されてきている外国人に、僕はあなたたちと同じような働き方をしたいのだけれど、どうしたらいいかと尋ねたら、マネージャーを紹介してくれて、東京に面接に行ったら、すぐに採用になりました。

それで、ウインドサーフィンのインストラクターとしてマレーシアに派遣されました。ウインドサーフィンは、高校の頃からやっていて、風が吹いたら、「あっ行かなきゃ。ごめんかえるわ~!」と言って学校から須磨海岸に行ってました。プロの大会に出場したり、アマチュアの大会なら1位とったりするぐらい没頭していましたね。

  

―マレーシアでは、どんな生活をしていたのですか?
マレーシアでは、ウインドサーフィンを教えたり、仲間やお客さんと楽しく飲みながら、毎日遊んで暮らしていましたね。でも、本当はヨーロッパに行きたかったので、お金をある程度貯めてから辞めました。その後、1ヶ月ぐらいスイスで過ごして、フランス、イタリア、ギリシャ、チェコ、エジプトなんかにも行きました。でもお金がなくなってきて、「やばい働かないと!」と思って、ニューヨークに行きました。きっとニューヨークならお金が稼げる気がすると。(笑)

それで、バックパッカーの人とかが泊まる、月450ドルぐらいの安いホテルに泊まりながら、日本食レストランで働き始めました。ニューヨークでは、日本で屈指の美容師さん、DJ、デザイナーとか、夢を持った人が一緒にバイトしていました。その仲間は、アート好きな人が多くて、全然興味がなかったアートや音楽に触れる機会が多くなって、刺激的な毎日でした。

―ニューヨークには、どのぐらいの期間住んでいたのですか?
4、5か月ぐらい住んでいました。アートに触れる機会が多くなっていく中で、そういうものを日本で紹介することをやりたいなと思って、安く仕入れたアートの展示会カタログ、建築の本、テンポラリーアートなどの洋書をたずさえて、名古屋に帰ってきました。それで、結局大学は辞めて、オシャレな雑貨屋、美容院、インテリアショップとかに委託本を置いてもらう仕事を始めました。

当時市内に5店舗ぐらいだった“ヴィレッジヴァンガード”に営業に行ったら、菊地さん(社長)がすごく気に入ってくれて、たくさん購入してくれました。その頃からヴィレヴァンの店舗数が増えてきて、出店するごとに大量に注文してくれました。それで、売上も伸びてきていて、儲かってはいないけど、このまま続けていけると思っていました。

―うまく軌道に乗り出したのですね。でも、なぜ再び弁理士を目指すことになったのですか?
26才で結婚して、その頃ヴィレヴァンの店舗数がどんどん増えていて、自分が最初に売っていた玄人受けする商品よりも、大量に売れるPOPなものを増やさなくてはならなくて。売れるものを仕入れて利ザヤを稼ぐ仕事を一生続けていくことって、どうなんだろうと思って、ずいぶん悩みました。結婚してるから、これまでみたいに直感で動けなくて。でも、そうすると守りになっていくでしょ。

それで、何ができるかなって考えた時に、高校生のときになろうと思った弁理士を、もう一度目指そうと思いました。その時は、インターネットが多少普及していて、特許事務所に勤めながら何年か勉強して、弁理士になる人が多いという情報を得て、たくさんの特許事務所に履歴書を送りました。

でも、弁理士業界は、旧帝大卒の人たちばかりなので、大学中退の僕は、落ちまくりましたね。だけど、雇ってくれるとこが1社だけあって、そこで働かせてもらいながら、猛勉強して、2年間で弁理士の試験に合格しました。

―すごいですね!でも、いつごろ独立されたんですか?
丁寧に質の良い仕事をしようと心掛けてきたけど、効率よくたくさん仕事をこなせという所長の考え方とぶつかりました。でも、事務所は売上至上主義だったから、入社して2、3か月後には、普通に売上で評価されてしまうわけ。そんな簡単な仕事じゃないから、少なくとも1人前の特許出願の書類を書けるようになるまで何年もかかかるのに、所長の考え方は、最低レベルの書類でも、どんどん書かないと会社がまわらないだろうみたいな感じで、、、、。

でも、僕は自分のお客さんに対しては、そういう仕事をしたくないから、僕の教えるメンバーには、チェックが厳しくなるでしょ。そうすると、僕が教えるメンバーは給料がすごく低くなるわけ。それで、事務所の将来に希望が持てなくて辞めていく人がいたりしたから、待遇をよくして、皆がやる気を持てるようにしたいと思って、みなで労働争議を起こしました。(笑)でも、その後色々あって、自分でみんなが働きやすい会社をつくった方がいいと思って、独立しました。

  

―弁理士になって、独立した今の吉田さんの話まできましたね!ここからは、おむすび通貨の活動の話題に移していきますね。足助には、いつから住んでいるのですか?
結婚して嫁さんの実家の安城に住んでいたけど、田舎に住みたいなとずっと思っていて、弁理士になって給料も上がって、現実的に移住できると思って、色々物件を探している時に、建築家の方に足助の住まいを紹介してもらいました。「農ある暮らし、自然との共生」という理念を掲げたコーポラティブ方式の山林分譲住宅で、僕も嫁さんも自然が好きだったから、足助に住むことにしました。

僕らの分譲住宅のわきには、市民農園が開発されていたので軽いノリで野良仕事を初めて、1年目は、近所のおじいちゃんに教えてもらい、2年目は教えてもらったとおりに自分でやったら、普通にお米が収穫できて、めちゃくちゃ感動して、生きるということを実感しましたね。

―足助での暮らし楽しそうですね!いつ頃から、地域通貨の必要性を感じ始めたのですか?
家に薪ストーブをいれて、山から薪を調達しようと思って、チェーンソー講習を受けにいきました。薪買えばいいのだけど、まあそういう発想がなくて(笑)それで、受けにいった講習が、人工林の間伐遅れとか、森の生態系の問題とかを解決したいというあついおっちゃん達が開催している講習でした。森林ボランティアグループを毎年卒業生がつくるっていうレールが敷かれていて、成り行きで事務局をやることになりました。それで、おっちゃん達と仲良くなっていく中で、「暮らし」を自分で作っていくことに興味を持ち始めていました。

また、暮らしが自給自足ぽっくなっていく中で、「価値って何だろう?」と考え始めていました。お米は僕が作って、野菜はかみさんが作る。人参とかめちゃくちゃうまいんです。甘くて、香りもいいし。買ってきた野菜よりもうまい。田舎で年収200万でも、楽しく暮らす人がたくさんいて、「これが貧しいのか?おかしいでしょ〜」と、思っていました。よりよい収入が幸せをもたらすという価値観で、世の中よくなっていればそれはそれでいいかもしれない。でも、どんどん忙しくなっているし、人と人との繋がりが希薄になっている。

そうやって色々考えたり、丸善に勤めていた20歳ぐらいの時に上司に勧めてもらった哲学者の内山節先生の本をなんとなく気になって読み続けていたり、そこから派生して色々勉強していくうちに、問題の根っこにあるのは、貨幣経済だったり、市場経済だったりすることに気づきました。感覚的にも、自分の生活の中で、お金によって色々なところにひずみが生じていると感じていました。そんな中で、地域通貨のことを知って、地域通貨を使って新しい価値を生み出せたらいいなと漠然と考えるようになっていました。

―おむすび通貨のアイデアは、どこから生まれたのですか?
お米の農家の卸値は、値下がりしていて、お茶碗1杯10円ぐらい。でも、それだと農家は、全然やっていけません。でも、お米は価格に換算すると下がっているけど、皆が思っているお米の価値はもっと高いという感覚がありました。例えば、僕が作ったお米を、知り合いの喫茶店に持って行って、1杯400円のコーヒーと交換してもらおうとすると、市場価格ならお茶碗40杯分(=400円)のお米を持って行かないといけない。

でも、お茶碗10杯~5杯分のお米(=50円~100円)でコーヒー1杯(=400円)を飲ませてくれるだろうなという感覚はありました。だから、物々交換的に、心地よい空間を作りおいしいコーヒーを入れるカフェの人と、僕が作ったお米を交換するのであれば、もっと人間的な価値観にそくした交換になるだろうと思っていました。だけど、常にお米を持ち歩くわけにはいかないから、お米と交換できるチケット10枚でコーヒー1杯飲ませてもらえたらいいなというようなことを考えていました。

  

―そのアイデアは、どのように形にしていったのですか?
色々なご縁で繋がった哲学者の内山節先生に足助に来てもらって、五日間哲学塾を開催しました。そこで、皆の関心のある課題についてゼミを作ってもらい、僕は、地域通貨をやりました。そこに今のおむすび通貨の立ち上げメンバーになった人も参加していて、基本的なシステムは、そのゼミ内で出来上がりました。その内容をゼミで発表したら、皆が「面白いからやってみよう!」と言ってくれて、お金を出し合って、組合を作りました。それが2010年の3月だったと思います。

当時、アースデイ名古屋に関わっていたから、その時に開催されるマーケットに出店するお店で使えるようにしたいと、実行委員会に話を持っていきました。実行委員会のメンバーが「面白い、やろー!」と言ってくれて、3月に考えたことが、5月1日に始まりました。

また、ダイヤモンドオンラインから取材を受けて掲載された「世界初の米本位制 豊田に生まれる」の記事が、YAHOO!のトップニュースに載って、その日から何日間は、取材等の電話が鳴りっぱなしでした。話題が広まっていく中で、持たなくてもいい使命感を持ち始め、深みにはまっていきました。(笑)地域通貨が社会のお金の一部として流通したら、世の中絶対よくなると思うから、今も活動を続けています。

―最後に、吉田さんにとって、“はたらく”とはなんですか?
やりたいことをやりながら、生きていくことかな。人間だからとにかく生きていかないといけなくて、お金も必要で、嫁せがないといけない。でもやっぱり、僕は、やりたいことをやっていたい。自分がやっていて、やりがいを感じられることをやっていたい。その中で、何とかして食っていきたいと思っています。

―インタビュー中は終始、笑い声に包まれていて、ほんとに楽しく、やりたいことをやりながら生きていることが伝わってきました。弁理士をしながら、足助に住んで農業をしたり、おむすび通貨の活動をしたりと、吉田さんのはたらき方は、新しいスタイルなのかもしれませんね。―

≪ おむすび通貨

取材日:2013年1月24日/取材者:大野嵩明、前田ちえ、小倉永輔/写真:小倉永輔、斎藤貴子/記事:大野嵩明