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2016-06-21

能楽師として生きていく〜第18回 はたらくインタビュー【狂言共同社 和泉流狂言方 能楽師 鹿島俊裕氏】〜


鹿島さん

はたらく課第18回インタビューは、狂言共同社 和泉流狂言方 能楽師 鹿島俊裕(かしま としひろ)さんです。「名古屋大学農学部、能楽サークル出身の能楽師、鹿島俊裕さん。大学から能楽を学んでプロの能楽師になられました」。名古屋の街中で伝統芸能を披露する「やっとかめ文化祭」の舞台で、紹介されていた鹿島俊裕さん。「やっとかめ大使」というボランティアとして、裏方をしながら聞いていた私は衝撃を受けました。能楽の世界は、親から子へ受け継がれるものだと思っていたのです。その鹿島さんが、サラリーマンとして働いていた仕事を辞めて、能楽だけではたらくことを選択されたことを知り、お話を伺う機会をいただきました。

—伝統芸能の世界で“はたらく”ことを決められた鹿島さん、能楽の世界に出逢ったのはいつですか?
大学の入学式です。「地獄の細道」と呼ばれるロビーまでの通路で行われるサークルの勧誘でした。そこで笛を吹いている綺麗な先輩に惹かれて、能楽サークル「名大観世会」に入部したのが、能楽との出逢いです。

—本当に大学からなのですね。能楽サークルというのは、各大学にあるものなのですか?
ええ、いくつかの大学にあります。「名古屋学生能楽連盟」があり、当時は名古屋市立大学、愛知県立大学、南山、椙山、金城、愛教大、などが参加。昨年60周年のイベントが開催されるぐらい歴史もあります。私の頃は、全盛期で名古屋大学だけでも26名で活動していました。男性6、女性4の割合でしたが、他の大学はほとんど女性でした。

—学生時代は、ずっと能楽サークルの活動が中心だったのですね。
いえ、いろんなものに興味が湧いていろんなサークルにも参加しました。兄が軽音に所属していたこともあり、ジャズ、フュージョンが好きで軽音にも参加しました。オーセンティックスカや、中古レコード屋で見つけたスカパラのライブ“妖怪人間ベム”に衝撃を覚えて、バリトンサックスを希望したのですが、バリトンサックスを演奏する先輩に反対され、トロンボーンを演奏しました。

また、張り紙で見つけた “大東流合気武術”は、小学生の頃マンガ“拳児”を読んであこがれた武術。すぐにやってみたいと思い入部しました。

—好きなものを見つけると、すぐに活動に参加される鹿島さん。経験がなかったものを、3つもかけもちで続けられるものですね?
正直きつかったです。日程がほぼ同じで、軽音は練習にでないと演奏会に出られない。また、他のメンバーと違って素人からなので練習は大変。それでも、3年間続けることができました。好きだったから、続けられたかもしれません。

—能楽も素人からということですが、どのように練習されたのですか?
練習は、仕舞と謡が主であり、それ以外に狂言、お囃子のお稽古があります。それぞれのプロの方から教えていただきました。私は、何かおもしろいものがやりたいと思い、狂言を選びました。それが現在の師匠である佐藤友彦師との出会いです。昭和区にある師匠のお稽古場で習いました。その場は、サークルの先輩1人と、名古屋女子大の狂言部の方1人と一緒に合同のお稽古。「名古屋学生能楽連盟」のつながりは、お稽古でもありました。

普段の練習は、体育会系でした。授業が終わった後、夕方4時から夜の9時10時まで謡うか舞う。夏、冬の1週間の合宿では、知多半島の内海の民宿など声が響いても大丈夫な場所で、朝からずっと声を出し3日目には喉がつぶれる。正座をし続けるので足の感覚がなくなる。終わったら、日付が変わるまで飲み会。最終日に発表会で締めくくる。厳しかったけど、楽しい思い出です。

鹿島さん

—充実したサークル活動ですが、大学ではどのようなことを学ばれていたのですか?
草地学(そうちがく)です。家畜が食べる牧草について研究していました。大学院の博士課程前期まで修了しました。いわゆる修士です。飼っているヤギ達に名前をつけたりしました。「どのような飼料を配合したら、家畜にとって良いのか?」就職した会社でも続けることができました。海外の視察に行った時には、海外のスケールの大きさに驚きました。

—大学の研究が就職につながったのですね。働きながら能楽師としての活動もされていたのですが、どのように両立されていたのですか?
師匠から「大学卒業して、今日からプロとして修業のスタートだから」と言われました。仕事場は知多半島。仕事を終えて1時間かけて稽古場へ移動し、夜の8時、9時から稽古。昼休みや行き帰りの車の中でセリフを覚えました。舞台は休日に出演。舞台に立つだけが狂言の仕事ではないのです。装束の準備、装束付け、など技術が必要です。平成15年7月。一通りできるようになると、師匠から「奈須與市語(なすのよいちかたり)」をやってみようかと声がかかりました。

1人3役の舞台で、これを演じて一人前と言われるのです。その後、平成16年4月、師匠の推薦で能楽協会に入会。ここでプロと認められました。平成7年1月の初舞台「口真似」から8年が経っていました。協会に入会してから、毎週出番が増えていきました。妻との出逢いも、狂言の舞台でした。同じ職場だったのですが、たまたま舞台の準備をしている時に、観客としてきていた妻と偶然の出逢い。結婚して、一緒に関東に転勤して、子供が生まれてからも狂言を続けてきました。

鹿島」さん

—能楽師としての活動に専念されるきっかけは何だったのですか?
平成26年に13年間務めた会社を辞めたのですが、「会社をやめてもいいんじゃない」と言ってくれた妻の一言です。能や狂言をもっと広めたいと思っていた私の気持ちを知っていたので、背中を押してくれました。現在は、妻の協力を得て、子育てをしながら活動をしています。私の仕事の4割は、家事・育児・料理・炊事・洗濯です。

ここ数年、能楽の公演数が減ってきています。理由の一つには、お客様を育てていなかったとも言われています。昔、能楽は習うもので、お稽古として習った方が、師匠の舞台を見に来ていました。バブル期まで、能楽堂はいつも満席でした。その後、バブル崩壊による不景気でチケットが売れなくなり、お客様の高齢化で観たくても能楽堂までいけないなど。私たちは、若い世代のお客様に知っていただく機会をつくってこなかった。私が住む知多半島・東海市で能や狂言のお話をしても、「へー、すごいね。」「でも、聞いたことも、見たこともない」と言われます。能や狂言をもっと知ってもらいたい。まずは、知多半島から広めていきたいと思い、活動をしています。

しごとバー

—最後になりますが、鹿島さんにとっての“はたらく”とは何ですか?
「人生経験」「勉強の場」でしょうか。学生時代より、社会に出てからの方が勉強になります。能楽や狂言もそうですが、飼料の会社では「食の安全」についても学びました。“はたらく”という意識はしていなかった。たまたま好きなことをやって、仕事になりました。仕事の中でつまらないと思った業務でも、やってみたら楽しかった。何が面白くなるかわかりません。今は、子育てや家事からも学んでいます。「人生経験」「勉強の場」と思うと楽しくなります。

—鹿島俊裕さんの“はたらく”は、出逢いを大切にされていて、「一期一会」を実行されていると感じました。好きなものを見つけたらかけもちでも始め、きっかけを逃さない。今を大切にする。大変な状況でも「人生経験」「勉強の場」として全力で取り組む。好きなもののために活動する鹿島さんの“はたらく”を伺い、能楽師の魅力を知り、舞台を観に行きたくなりました。—

≪ 能楽師と語らナイト

取材日:2016年3月1日/取材 大野嵩明、若尾和義 記事 若尾和義 写真 若尾和義 鹿島様より借用



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