街とともに生きること〜第13回 はたらくインタビュー【フリーライター 大竹敏之氏】 前編〜
はたらく課第13回目のインタビューは、名古屋の書店でよく名前を見かけるフリーライターの大竹敏之さん。『名古屋の喫茶店』『名古屋の居酒屋』などの本を手掛けており、新聞、ネットでも連載をされています。きっかけは仕事を通じてお食事に行くことになり、幼い頃の大竹さんのお話やこの仕事のスタイルになった理由を聞いて、「おもしろい!」と感じたからですが、大竹さんのそういった面は意外に知られていないんじゃないかと思いました。せっかくなので、より深くお伺いしてたくさんの方に知って頂こうと考え、インタビューをさせていただくことになりました。
―小学校の頃、幼い頃はどんなお子さんだったんですか?
漫画が好きでした。ちっちゃい頃は漫画家になりたかった。父がまだ若い頃に、はじめて担任をもったときの生徒さんが漫画を描いて、父にプレゼントしてくれたのをずっと父が大事に持ってたんですよね。「大竹学級」みたいな名前で、クラスの日常を描いたもので。父が主人公で、いろんな生徒さんが出てきて、っていう内容のものなんですけど。すごい上手にできたやつで、僕もすごい好きで。今思うとそれに影響されてきたのかな。
だから僕もクラスメイトが出てくる漫画を小学校のときよく描いていた。授業と授業の間にクラスメイトによく見せたりしてて。漫画家になりたいって高校入るくらいまでは思ってたんですよ。で、一応なんかね、ケント紙みたいなものとか、Gペンみたいなものとか買ったんですけど、プロット(※1)ができない。「あっ物語つくれないわ」って。そっからどうしたもんかなってもやもやしてました。
※1 プロット…物語のあらすじ
―中学、高校とどう過ごしていらっしゃったんですか?
高校時代はあんまりやりたいことが見つからなくて、自分にとっては一番暗黒時代だった。中学まではわりと部活も勉強も一生懸命やってたんですよ。剣道部だったんですけど。高校行ったら市内から強いやつが集まってくるから、レギュラーにもなれず半レギュラーみたいな感じだし。まわりのみんなもあんまり一生懸命練習やる雰囲気がなかったのもあって。漫画描けんなー、部活も中途半端だしって、すごくもやもやした感じだったんですよ。そしたら高一、高二と成績がどんどん下がっていって、学年で尻から十番くらいになってしまって。国語だけはトップ10ぐらいなんですけど、他はほんとに全然だめで、勉強しなくなってっちゃった。
でも高三になったときに、じゃあ就職する気あるのかって言ったらそんな覚悟はないので、やっぱ大学受けなきゃしょうがないなって、一年間だけはものすごく勉強した。なんとか巻き返して、ここ行けるといいなって思ってた大学に行けたので、そこでちょっと自信を取り戻せた。
それと並行して、当時ちょうど糸井重里さんとか川崎徹さんが世に出てきた、コピーライターブームみたいな感じがあって。勉強しながら深夜放送のラジオをよく聞いてて、東海ラジオの「ミッドナイト東海」でシングル曲のキャッチコピーを応募するコーナーに何度か送って読まれたりしてました。
―どうやって大学を選んだんですか?
私立の文系で、とにかく受験科目が少ないところ。どういう学部がいいのかも何も分かんないから、とりあえずいっぱい受けたんですよ。法学部とか経営学部とか。で、立命館大学に産業社会学部っていうところがあって。当時はわりと珍しかったんですよね。マスコミ論とか、ゼミでそういうのがあったんですよ。「あーそういうのあるんだ。いいのかなー」って思って。立命の産社と経営学部が受かったんですけど、ちょうど高校の副担任が立命出身の人で、どっちがいいですかーって聞いたら経営は女の子が少ないって。それはとても大事だって(笑)。で、産社にして。名古屋出たいなーっていうのがあったんですよね。東京はあんまり興味がなかったんで。だったら関西、京都の学校に行きたいなって。
―その頃は名古屋や東京にどういうイメージを持っていたんですか?
とにかく高校のときにほんとにつまんなくてつまんなくて、なんかリセットしたいっていうのがあったんでしょうね。とっても。東京はなんでしょうね。ちょっとひねくれていたので、「出て行くんなら東京」みたいなのが僕らの時代は強かったですから。でもなんとなくアンチ東京っていうのがあったんですよ。京都は文化的なイメージ。京都弁の女の子とつき合えたらいいなってありましたよね(笑)。
―大学での生活はどうだったんですか?
大学はほんとに楽しくて、今考えるとほんとリセットできたのかなーって思います。一回生のときは、マスコミ問題研究会っていうサークルがあったので、一回入ってみたんですね。マスコミうんぬんってついているのがそこだけだったんで。そしたらほんとにマスコミ論を勉強する、まじめな固いサークルで。でも、僕は「なんか作りたいな」っていうのがあったんです。
ちょっと遡りますけど、昔、夏休みの課題とかで作る「壁新聞」っていうのが好きだったんですよ。夏休みにこんなことありましたっていうのを記事にして、自分でイラストを描くもので、漫画と似たようなもの。絵は好きだったし、国語も好きだったので、両方ミックスしたものって、雑誌っていうのがあるんだなって気づいて。大学入って雑誌を作りたかった。いわゆるミニコミですよ。
でも、マス研(※2)はどうも何も作らないなって。で、一年で辞めて、学内で配るミニコミを二年生のときに自分で作ったんですよ。
※2 マス研…マスコミ問題研究会
―どうやってミニコミを作られたんですか?
ちょこっとクラスメイトに手伝ってもらって記事書いてもらったりしたんですけど、基本的にはほぼ自分でやって。印刷代も自分でバイト代から捻出して、写真もカメラよく分かんないのに自分で撮って。まあまあウケたんですよ。まあタダで配るんで当たり前なんですけど。あっという間に五百部刷ったのがなくなったりして。最初は学内のかわいい女の子を撮ったりとか、そういうことしてたんですけど、ちょっとずつちょっとずつ、いわゆる取材モノのフェーズが高くなって、三年間で六冊作りました。
三角パックってあったでしょ。牛乳の。テトラパックって言うんですけど、あれ当時もうなくなっちゃってたんで、あれはどこ行ったんだろうって記事にしたり。自分で広告集めて、当時パソコンないから手書きで広告つくって。学生によくしてくれる喫茶店があって、毎回オリジナルでマスターの似顔絵描いたりして。四コマも自分で描いたり。あとはテーマ決めて寄稿してもらったりとか。「これは書きたい」って子がいたので、四ページ任せたりとか。壁新聞の延長でもあるし、ちょっとした疑問をちゃんと自分で調べて記事にするっていうのは、後に自分で仕事にするものの、ほんとに同じようなことをやっていました。これを書き始めて、自分は雑誌作る人間になりたいなって、明確になった。
―これがその当時のものですか!?
雑誌の名前は「茶々丸」っていうもので、「茶々を入れる」っていうところからきているんですよ。営業するのも楽しかったし、取材をして書くようになって、ほんとに面白いなって思うようになったんです。自分が知らなかったこととか、これなんだろうって思ったことを、ちゃんと取材して調べていくと分かる。それを書いて読んでもらえるところが面白いですよね。
三角パックの前だと、「大学で一番なまけものは誰だ」っていうテーマで。大学って学部によって校舎がいっぱいあって、門もいっぱいあるじゃないですか。だから単純に、門の一番近くに住んでいる学生が一番さぼってるわけじゃなくって、学部との兼ね合いがあるんですね。だから、どこそこ門の一番近くに住んでいるけど校舎は遠かったりすると一番じゃない。要は下宿から自分の学部の校舎まで何歩かかるか、みたいなのを調べて、大学の近くにあるアパートをかたっぱしっからピンポンピンポンして、何学部?って聞いたりとか。どこそこ門の近くの何学部ってやつがいたら、そいつが一番だって。
―めちゃくちゃ行動力ありますよね。
今思うとね。本来苦手なんですよ。けど、知りたいっていうよりは、面白い記事を書くには人から話を聞かなきゃならないんだって、当時からあったんですよ。もともとは僕、人見知りするほうだし、知らない人と話すなんてのは、そんなにね、中学、高校と全然得意でもなんでもなかったんですけど。この記事を作ろうと思ったら、やっぱり色んな人に声をかけて、話聞かないと嘘になっちゃいますから。
―雑誌『QA』に影響を受けたと伺っていますが、どのように影響を受けたんですか?
雑誌『QA』(※3)も大学一年のときに、たまたま見つけて面白いなって。まさに同じなんですよね。Qがあって、Aを導きだすためにっていう内容で。記事の内容も影響受けました。全体的には雑学もので。その後、雑誌とかで当たり前になっていくんですけど、この当時はあんまりなかった。
雑学本のふりをして、けっこう特集、ワンテーママガジンだったりしたので、右翼の特集とかもやっていたんですよ。右翼に関するQ&Aとかね。出版社に質問状送ったけど、どこもAをくれないって。面白い記事を作るにはいろんなところにアプローチしていかないと、できないんだなーっていうのを教えてもらった感じはあって。この疑問だったら、この先生に聞きましたっていうのを書いてあったりもして。さっきの茶々丸の三角パックの記事を、一回載っけてもらったんです。読者が作るQ&Aみたいなページがあって、この冊子できて送ったらそのまま載っけてくれて。
※3 『QA』…1984年平凡社より創刊。現在は休刊。
―そういうことをやりながら就職活動をされていたんですよね
そうですね。うちらのときは遅かったので四回生になってから動いたんですけど。とにかく雑誌を作る人間になろうっていうのは明確にあったんで。で、出版でね、求人があるの、ほんとに東京の大手だけなんですよ。小学館とか、マガジンハウスとか、受けたりしたんですけど、やっぱり狭き門だったんですよね。小学館なんて体育館みたいなところで、面接ブースみたいなのが仕切ってあって、ベルトコンベアのように何百人という学生を面接してて。
案の定どこも受かんなくて、唯一内定もらえたのが丸善だったんです。丸善は出版部があるんで受けたんですよ。ミニコミ作っているって話がウケて、内定もらえたんですけど、出版はほとんどやってないから常設で人を置いてないってことを知って、出版ないならいいやって断って。夏前後だと思うんですけど、名古屋のちっちゃい出版社にたまたま面接行ったことがあって。そこが、「出版やっぱり東京だから、いろいろ受けて、どこも引っかからんかったらうち来ればいいよ」って言ってくれてて。秋近くなって学祭で遊びたいし、もう一冊茶々丸作りたいし、もうあそこでいいやって面倒くさくなっちゃって、就職活動辞めたんですよ。名古屋で地元に近いし、東京何が何でも行かなくてもいいかなって、名古屋の出版社に就職したんです。
―仕事を始めてからはどうだったんですか?
中古車本を作っていた会社なんですけど、ドライブガイドの記事があって、軽いものですけど、取材して編集して記事があってっていうもので。でも中古車雑誌ってチラシの寄せ集めなんですね。だけど、面接のときに、「編集記事もこれからやっていきたいから編集に興味のあるやつ欲しいんだわ」って言ってくれてたんで、入ったんですよ。最初の日に本を見たら、どこにもそんなページがなくって、「編集長、例の記事は?」って言ったら、「あーあれ一回やったけど、金かかるばっかりでやめたんだ」って。詐欺みたいなもんですよ(笑)。だから編集って仕事がそもそも存在しない会社だったんです。
で、営業しかないんで、営業することになって。中古車屋さんを回って、広告とれたら自分で写真を撮りに行って、版下(※4)切ってみたいな感じで。最初はそれでも、当時は紙焼き(※5)自分で切ったりして版下作ってたんで、図画工作みたいな感じもあって、一連の作業は面白かった。けど、やっぱり三ヶ月も経つと、「あれ?これやりたいのと違うなー」って思って。そもそも車にあんまり興味がなかったので、またどっか出版社探して転職しようかなと思い始めた矢先に「新しい雑誌を作る。レジャーの記事のもので、お前と一緒にやりたいから引き上げてやるわ。」って言われて。二、三ヶ月創刊が遅かったらたぶん辞めていた。
レジャー誌の編集は一年ですね。一年で廃刊になっちゃった。ただ四人くらいのスタッフでやってたんで、何ヶ月もしたら台割(※6)まで作るようになってたんです。取材行って、書評みたいなのも書いてたりとか、ちょこちょこ記事も書いてたり、編集でロケにライターさんとかカメラマンさんとかと一緒に行ったり、雑誌づくり一通りやらせてもらった。内容は基本はドライブガイドがあって、レジャースポットの紹介とかなんですけど、けっこう一本の記事にがっつりボリューム取るような、読み物として読ませるみたいなやつだったんですよ。一つ記事を任せてもらえるとしっかり書けるような感じで。
※4 版下…製版用の原稿。
※5 紙焼き…製版処理したフィルムから印画紙にプリントすること。またはそのプリントしたもののこと。
※6 台割…ページの構成。
―入社一年目でそれができるっていうのはいいですよね。
ちっちゃいとこに入ったんでね。結果としてはよかったんですけど。名古屋の事情をよく知ってたら、きっとゲインさんとか、流行発信さんとか、あとプロトさんとかもあったから、名古屋にいたらそっちに絶対行ってたと思う。名古屋の状況よく知らなかったので、たまたまマスコミ電話帳ってところに連絡先がついていたのがそこだけだったんで。よその会社入ってたらね、また全然違っていた。出会う人も違うし。
―それからはどうだったんですか?
一年でレジャー誌がなくなったんですけど、それからまたしばらくして外車の本を立ち上げて。それは比較的レジャー誌の流れもある程度汲んで、ドライブのガイドがあったり、車とはあんまり関係のない記事も盛り込んでいたので、そっちの方を中心でやるっていう感じで。それを一年半か二年近くやったんかな。ただやっぱり車とは関係ない記事ばっかりやってるわけにもいかないので、車の記事を外注のライターさんに発注したりとか、多少はやらなきゃいけなくて。で、やっぱり車のこと書かないってよくないなあって思って。
自分がどうのこうのじゃなくって、車知らないような人間が車の雑誌を作っているのは、読者に対して申し訳ないなって。ここにいても車の本しかないので、立場を変えてちょっと仕事の幅を広げなきゃなって思ったんですね。
―そこから転職活動は、辞めてから考えたんですか?ある程度目星をつけてどうしていこうか考えていらっしゃったんですか?
三年三ヶ月いて、二十六のときにやめてフリーに。そこからずっとフリーライターなんです。吹けば飛ぶような会社で、給料もそんなに失ってもったいないようなもん頂いていたわけではないので。実際にもうその会社もない。もうつぶれちゃいました。GOOが来て、あっという間に。
そのときも別に「フリーライターになろう」と思って独立したわけではなくって。あくまで雑誌を作る立場の人間でいたいんで、この先自分がよく分かんない車のことをやっても発展性がないなって。三年近く編集をやっていると、ある程度カメラマンさんとか、横のつながりができる。先輩のフリーランスのライターさんも、「まあなんとか食えるんじゃない」みたいな安請け合いをされて。じゃ、とりあえず一回やめよっかなって思って。
―辞める前に車は違うなって思っていらっしゃったみたいですけど、書きたい記事はあったんですか?
そこを突かれると痛いところで、じゃあ何が書けるかっていうのは全然なかったんですよ。でも、逆に色んな仕事をやっていくうちに、なんか見つけられたらいいなと思っていたんですね。フリーになったその日にカメラマンの紹介で仕事はあったんですよ。「ぴあ」のグルメガイド。ムックがあって、ネタをいっぱい探していたから「大竹くんやる?」って言われて、渡りに船だって。最初はそういうグルメ本が多かったですよ。今でもフリーのライターってほとんどそれをやって食ってくんですけど。一番多いので。私も一番最初に飯の種だったのは「ぴあ’sグルメ」とかですよね。
飲食店さん取材して、一本原稿書いて四千円。がんばれば、原稿書く時間抜きにして一日七~八件まわれますから。前いた会社の編集仕事とかを並行してやっていたので、なんとかそんなにね、収入的には別に辞めて食いっぱぐれるみたいな、そういうものはなくって。
―でもすごいですよね。フリーになって最初から食べていけるっていうのは。
ライターなんて経費もかかんないしね。当時はワープロ一つ買って、名刺でも作れば。今でも同じだと思うんですけど、ライターなんて初期投資なんてほとんどないので。で、一つ仕事をすると、どんどんどんどん編集の人とかカメラマンとか横のつながりができていって、そういう力仕事的なライターの需要はいくらでもあったんですよ。
※当時は体を張ったお仕事もされていたそうです。
これだけグルメ本が名古屋にもあるんで、そんなに仕事に困る感じはなくって。でも一年たってから東京の出版社に営業に行くようにしたんですね。別に嫌でも何でもなかったんですけど、やっぱりグルメの仕事が中心で。もともと得意ジャンルとかそういうのが自分の中ではよく分かんなかったので。いろんな仕事しなきゃって。
で、東京に行けば「名古屋にいること」が武器になる。名古屋にいながら東京の仕事を覚えるじゃないですか。僕の上の世代の、「この人デキるなあ」って思ってた先輩のライターさんは東京に行っちゃってたんですよ。自分はあんまりそういう発想はなくって。東京にキャリア一年か二年の若造のライターが行っても、東京に暮らしたこともないし、もう丸腰で行くようなもので。武器何にもない。これは自分の中では全然イメージできなくって。とりあえず名古屋にいた方がむしろいいなあと思って。そしたらね、案の定営業行けばちゃんと仕事がとれたんですよ。
―名古屋特集とかありますもんね。
今はそうだけど、昔はなかったんだよ。名古屋を大きく取り上げるなんてなかった。定期的に仕事が入ってきた雑誌は『日経トレンディ』と、商業界の月刊『飲食店経営』とか。今でもずっとやってるんですけど。『MONOマガジン』も最初の頃からかな。でも、自分の中で大きかったのは『日経トレンディ』の仕事で、最初に営業に行ったときに、編集長に「名古屋ってライターいるんだ」って言われて。あっそーんな程度に思われてるんだって思って。誰もいないと思われているんだなー発信する人間が、だから記事載らないんだって。
だからチャンスだって思ったんですよ。こっちから発信していけば、記事に載るんだなって。日経トレンディってビジネスマンがみんな読んでるような雑誌に、自分が見つけた名古屋のネタを送れば記事になるんだって。実際ね、積極的に採用してくれたんですよ。ほとんど毎月カラー1ページノルマで。トレンドニュース的な、グラビア記事みたいなページが何ページかあって、そのうち一ページ、名古屋でネタ見つけてきて書けって。今まで何にも載っけてなかったような名古屋で、そんな毎月あるわけないじゃないですか。勢いだったんですけど、一生懸命図書館行って地方の新聞見たりとか、情報引っ掻き集めて探して送ると、だいたいほんとに月一くらい通って。で、名古屋の記事を載っけることができたんですね。
―どんな記事だったんですか?
名古屋でこれが流行ってるとか。たとえばね、あの神谷デザインの神谷さんが当時売り出し中で、名古屋だと古民家改装居酒屋がブームみたいな。あれが一番わりと日経トレンディらしいし、後追いで名古屋のテレビ局が追取材したりとか。やっぱり川上のメディアなんで、川下に降りてっていろんなところが追取材してくれるっていう点でも、自分がページを取ってくる意義がすごくあるなあと思って。
―情報源って図書館や新聞だけだったんですか?
あとはグルメの取材をやってたので、そこからのつながりで飲食店の新店舗情報とかイベントとか比較的分かってたので、そういう生の情報ですよね。
―人見知りって仰っていましたけど、コネクション作るのがすごく上手いですよね。
それもよく言われるんですけど、フリーのライターで人に会うのが苦手って言ってちゃ、それは日本語も分かりませんっていうのと同じことなので。生きていくうえには、やらなきゃしょうがないことですよね。だからそれを克服できないのは、やりたいっていう意思が弱いだけだと思います。
―東京の仕事がきっかけで名古屋でも仕事が増えたりっていうことはあったんですか?
そうですね。名古屋の仕事は名古屋でグルメの仕事をきちんとやることによって、芋づる式みたいな感じで、そっちはそっちで比較的安定してあって。東京は最低でも年一回くらいは行ってたんですよ。二日くらいかけて十社くらい回ったりとかしてて。当たりの確率は行くたびに低くなってはいくんですけど、最初の頃は十件行けば三~四件は仕事になったりしてたんですよね。
で、どんどんどんどん東京の仕事のウエイトが高くなって、半々くらいだったのかなあ、東京のが多かったのかなあ。三十半ばくらいまではそういう感じだったんです。二十六でフリーになって、二十七くらいから東京で営業に行くようになって。東京の雑誌の仕事とれるようになってきたくらいから、「名古屋をメディアを使って元気にできるといいなあ」って思うようになりました。自分一人、こんな木っ端ライター一人が動くだけで、大きな雑誌のページがとれて、名古屋のことをアピールできるわけですから、やっぱ誰かがやったほうがいい仕事だなあって。幸いあまりやっている人がいなかったんで、じゃあ自分がやろうって。自分の役割だなあって。