街とともに生きること〜第13回 はたらくインタビュー【フリーライター 大竹敏之氏】 中編〜
大竹さんインタビュー前編では、幼少の頃から、就職し、フリーライターとして仕事を始めた頃までをまとめさせていただきました。中編では、ライターとしてどのように成長されたかについてです。引き続きご覧ください。
―本も何冊か出されていますよね。
最初に出した本は、「名古屋真相追Q局」ってやつで。九三年くらいに、創刊されたばかりのスパイマスターで連載を始めたんです。今でもスパイマスターってファッション誌みたいな感じでありますけど、最初はサブカルっぽい感じの雑誌だったんです。署名で記事を書くものがないとなって思っていたときに、たまたま友達が創刊メンバーで、「大竹くんなんかやりたいのある?」って言われたから、疑問を調べるネタやりたいって。結局学生の頃から一緒ですよね、やってるものは。名古屋の真相を追求する。Qは、アルファベットっていう。名古屋のちょっとした疑問をねちっこく調べてっていう連載を始めて。
で、どれくらいだろう、二~三年後かな。出版社に企画を持ち込んで、単行本にしたのが、最初の本ですね。書籍を出すこと自体が目的じゃなくって、ライターとしてやっていく以上は、署名の記事を書かないと、ずっと四十になっても五十になっても、グルメ取材の力仕事ばっかりになっちゃうじゃないですか。どっかで、ちょっとずつちょっとずつ、自分のやりやすいように変えていかなきゃいけないので、ライターとして生きていく以上は、ごく当たり前のことだと思うんですよね。
だから三十になるぐらいに、四十になってもできる仕事を今のうちに、と思ってて。それが日経トレンディであり、書籍なんですよね。三十前後のときに、やっぱり名前で書ける仕事をある程度やっていかなきゃっていうのがありましたし。五年後十年後見据えた仕事をちょっとずつでも、って。全部が全部そういうわけにはいかないですけど、ちょっとずつそういう仕事を一つでも二つでも増やしていこうっていうのはありましたね。だから単行本出すのが特別なこととかではまったくないんですよ。ライターとしてやるべき仕事っていうだけの話で。
―自分の強みってどのように見つけられましたか?
強みはまず、名古屋にいるだけで名古屋のことを書けて、東京のメジャーの雑誌にページとれるんだっていうのが一つ、明確な強みだなーっていうのは三十前くらいで一つ見つかりますよね。その時点で、「東京に行かないの」ってずーっと言われ続けてきたんですよ。二十代のときから、東京の編集の人にも言われるし。行く意味ないって明確に思えてたんで、それ言われて揺らぐみたいなことは一切なかったですけど。
あとは署名ものを、ちょっとずつちょっとずつウエイトを増やしていったりして。で、柱がもう一つできたのは、最初のスパイマスターの連載の流れなんですけど、連載が終わっちゃったときに、珍スポット系取材を積極的にやらなきゃって思って。ちょうど、東海じゃらんが創刊するタイミングから、「東海発バカルト紀行」っていう連載を友達のイラストレーターと組んで始めたんですよ。
じゃらんが創刊するってまだ知らないときに、「こういう記事作りたい」って、友達のイラストレーターと一緒に何にも決まってないのに取材に行って、見本のページを作ったんですよ。そのまま版下に使えるような。漫画があって、記事があって。で、それを持ってね、どこに持ち込もうって感じで。最初『るるぶ』とちょっと付き合いあるから、るるぶに持っていこうかなーって言ってたんですけど、じゃらんが創刊するって聞いて。じゃあそっちの方がいいやって持ち込んだら、その場で「あっこれ面白いからやろう」って。編集長が無理矢理なスケジュールでねじ込んでくれたんですよ。で、連載が始まって。それからその珍スポ系の、いわゆるB級スポットネタっていうのが自分の中での柱の一つに。大黒柱が名古屋ネタで、ほんとにちっちゃな柱で。でもライフワーク的な感じで楽しめるものとして、B級スポットネタをずっとやっていきたいなって。
―B級スポット系をやろうと思われたきっかけは?
レジャー雑誌の編集を最初にやってた頃に、当時メインで書いてたライターさんが、変なとこが好きだった。だからちょこちょこ行ってたんですよ。やっぱり場が面白いところは、そのまま書くと面白いんだなっていう。自分は面白いものが書きたいんですけど、どうも文才がそんなにない。じゃあ、どうやったら面白い記事を書けるかっていうときに、場の力をそのまま借りるしかないなって。だから面白いとこ書けば面白い記事になる、っていうことなんですよ。
―浅野祥雲さんの存在はいつ知られたんですか?
あれはね。九三年に、連載を始めたスパイマスターの「名古屋真相追Q局」の五回目なんですよ。だからもう、21~22年前。街のちょっと変な疑問ですよね。関ヶ原ウォーランド(※1)を知っていたので、あの五色園(※2)の変わったコンクリートの仏像は、ひょっとして同じ人が作ったんじゃないの?って。気づいたっていうか疑問を抱いた。で、それを調べようっていうので一本記事にしたんですよ。浅野祥雲さんが作ったんだよっていうのは、五色園でもウォーランドでも、電話一本ですぐ分かったんですけど、それ以上の情報がないんですよ。浅野祥雲さんっていう人に、昭和の初期から四十年代くらいに作ってもらって持ってきてもらったっていうことしか分かんない。
で、祥雲さんもう亡くなって当時十何年か経っていて、各施設の発注した人も、もうお亡くなりになっていて、もう現場にいる人は人づてでしか聞いてない。「名古屋のなんか、あの辺じゃなかったかな、白鳥の辺だった」っていう人もいれば、「瑞穂の辺だった」っていう人も。ばらばらなんですよ。情報が。すでにもう伝説化してしまっていて。最初、きっかけはちょっと変わった人形作っているから、調べると面白いかなっていうくらいだったんですよ。でもそうやってあまりにも情報がないから、なんとかたどり着きたいなって思って。断片的な情報ですよね。浅野祥雲さんという名前とコンクリートでああいう彫刻作っていて、どうも総合すると名古屋の南の方、白鳥とか新瑞橋とか。当時はインターネットも何もない状態なので、名古屋の南部の電話帳何冊か持ってきて、浅野のおうちにずーっと順番に電話かけていったんです。浅野祥雲さんっていうコンクリートで仏像作っていた人探しているんですけど、おたく違いますか?っていうのを。
※1 関ヶ原ウォーランド…岐阜県不破郡関ケ原町にある博物館
※2 五色園…愛知県日進市岩藤町にある日本で唯一の宗教公園
―すごいですね!!
何件かけたかな。百件もかけないうちに見つかったと思うんですけど。まあそんなね、何千件もあるわけじゃないんで。五十件目くらいだったのか百件目くらいだったのか覚えてないんですけど、あるとき浅野さんのおうちにかけて、あーうちじゃないよって言われて。でも「それねーもう浅野っていう名前じゃないんだわー」って知ってて。そのおじさんが、「もう娘さんが浅野の名前じゃないけど、日比野のこの辺におうちあるよ」って教えてくれて。その親戚でも何の関係もない浅野さんが。で、行ったらたしかにおうちに四メートルくらいの猿田彦(※3)の像が玄関の横にどっかんってあって。娘さんももうね、八十ぐらいだったんですけどいらして。ようやくたどり着いたんです。
それってわりと取材の原点っていうか。分かんない、でも断片的な情報がある。で、足で稼ぐようなもんですよね。電話で時間と労力を使ってっていう。で、たどり着いて見つかって。さいきん捜査っていう感じだなって思ったり。知らない家に手紙置いていくこと、今でもありますよ。こういうの探してるんですけどお宅は違いますか?って。
※3 猿田彦…日本神話に登場する神
―『名古屋の喫茶店』や『名古屋の居酒屋』なんかでも、取材したい方に対して手紙を書くこともあったんですか?
最初断られて、お手紙を出したりとか、手紙出したあとにまた行ったりとかってありますよ。なかでも浅野祥雲さんはやっとたどり着いた取材対象だったんで、やっぱり自分の中ではちょっと特別な存在。今でこそ「浅野祥雲」ってネットで調べれば、いっくらでも出てくるんですけど、基本あれの基礎情報は全部そのとき僕が見つけたものなんですよ。本名だったりとか。娘さんから色々聞いて、アルバム見せてもらって、生前のお写真とか写真撮って載っけたりとかしてるんですけど。
僕、何年か前から日本唯一の浅野祥雲研究家って名乗っていて。取材の醍醐味みたいなものを祥雲さんを通して教えてもらったっていう存在なんですよね。もう二十年やってるんで、もうあらかた見てるかなと思ってたんですけど。春にね、単行本化が決まって、もうじき出るんですけど(※『コンクリート魂 浅野祥雲大全』9月30日に発売されています)、この四ヶ月くらいの間でもすっごいいっぱい新発見が出てきた。しかも巨大なものが十体もあるようなところが山奥にあったりとか、そういうレベルでまだいっぱい見つかったりしてるんですよ。情報が集まってくるのもあるし、改めてご遺族のアルバムとかを皿のようにして見てくと、いっぱいまだヒントがあったり。しょっちゅうおうちに行ってわかんないことがあるともう一回アルバム見せてくださいって、してるんですよ。
―うれしいですよね。そこまで色々と調べてくれるっていうのも。
今でこそね、招き入れてくれるんですけど、一時期は門前払いみたいなのがあって。ほんの六~七年前までは。最初にお会いしたおばあちゃんが去年亡くなったんですけど。その娘さん、お孫さんが、今すごく仲良くしてるんですけど、最初にお会いしたときは「記事なんかにしてもらわなくていいから」みたいな感じで。何にも話すことはありませんって門前払いをくらったこともあって。というのは僕のも含めてなんでしょうけど、当時、おもしろおかしく紹介する記事ばっかり色んなところに出るようになって。それをご遺族が見て、こんなふうに笑い者にされるんだったらもうメディアの取材なんて受けないっていう感じに、けっこう長い時期なってたんです。
わたしも一応その一派に。でも、それぐらいまではほんとに僕もおもしろおかしい対象としてしか見てなかった部分もあるんで、仕方ないって感じもあるんですけど。でも、どれくらい前かなあ。六~七年前くらいから、やっぱりちょっと笑いもんにしてるだけのもんじゃないんだなあってようやく気づき始めて。何度も何度も現場を見てると、これは生半可なパワーでは絶対作れないなあって思えてきて。きっかけになったのは、「タモリ倶楽部」への出演。あのときも頭下げにいって、「僕がちゃんと出て解説するので、おもしろおかしくだけはしませんから、お願いします」って。了解を得られてから出たんですけど。それぐらいまではまだ半信半疑、ちょっとうさんくさいって見られてて。
―タモリ倶楽部が取り上げたのも、大竹さんの影響なんですかね。
その頃はもう既にネット全盛っていうかね。いろんなブログがいっぱい、珍スポブログもいっぱいあるんで、そういうので浅野祥雲さんっていう存在はもうあちこちに出回っていたんですよ。だから、タモリ倶楽部のディレクターはもう一つ珍スポ系の充実したサイトがあって、こいつにしようかこいつにしようかどっちにしようかなっていう感じだったらしいんです。でも幸いにも僕に声をかけてくれて。そのちょっと後かな。二~三ヶ月後くらいに朝日新聞の中部版で僕、連載を持つことになって。「幻の人形師 浅野祥雲伝」っていうのをタモリ倶楽部のほんとに二ヶ月後くらいかな。十回くらい連載したんです。そのときに初めて朝日新聞に掲載するんだから、きちんと時代背景とかを調べて社会情勢とかそういう背景の中で、あの人の存在はどういうもんなのっていう民俗学的なアプローチをしなきゃ、天下の朝日で記事は書けんなって。そっからちゃんと調べるようになった。
ご遺族の反応も朝日新聞に名前を出してくれたっていうのもあって、割と決定的に雪解けというか、信頼を得て。その頃なんですよ。ちょこちょこおうちにまた行くようになって。お孫さんが塗装屋さんをやっていて、「おじいさんの作品をいつかきれいに塗り直して回りたいんだよね」って。もうほんとに茶飲み話程度で言っているのを聞いて。で、五色園に行けば行くで仏像がぼろぼろになっているし。で、管理人さんに「これって塗り直しできないんですかねー」っていう話を持ちかけて。やってくれるんだったらありがたいって話になって。ウォーランドは一応観光施設なんで、施設が自前でやってるんですけど。
―大竹さんのブログで拝見したところ、五月に話が持ち上がって、八月には形になっているようですね。
でもその間はけっこうねえ、じゃあどうしたらいいっていうのは、なかなか自分もやり方分かんなかったし、どうやって賛同者を得られるかっていうのは分かんなかった。でもあの辺ってけっこう美大があるので、美大の関係者とかに、かたっぱしから声かけて。友達のデザイナーさんが県美の出身って聞いたら、こういうのやりたいんだけど誰か動いてくれる人いないかなあって言ったり。とにかく会う人会う人に話をしてて。で、日進は高校が二校あるんですけど、美術部の顧問の先生に話を持っていったりとか。でもぜんぜんもう、なしのつぶてですよ。美術系の人は。何にも関心示してくれない。何ヶ月も過ぎ、たまたま県美の野外彫刻研究してる先生と知り合って、すごく興味を示してくれて。景気付けにイベントみたいなことをやって、告知して、人集めして、やりましょうよって言ってくれて。で、一気に具体化に。
で、都築響一さんを名古屋に招いてTokuzoでトークイベントやって、それがすごい大盛況だったんですね。その二週間後に実際の修復に至るんですけど。でも、結局県美の先生は、イベントを最後にフェイドアウトしちゃって。そこの生徒さん中心にコアメンバーでチーム組んでできるのかなって思ってたら、一切できなくなっちゃって。何が気に入らなかったのか未だによく分かんないんですけど、修復の現場にも一回もこなくて。ただ修復のやり方に対する考え方とかがちょっとずつなんか違うな、っていうのはあったんですよ。何度も打ち合わせするうちに。
―どう違ったんですか?
その先生は職人さんに一週間かけて二体くらいピカピカにきれいに直してもらって、それを見本にしてボランティア集めてやりましょうって言ってたんです。でもそれって、職人タダ働きさせるってこと?って思って。一応僕がメインなので、塗装屋さんと相談して、もっとカンタンにできませんかって。で、僕のやり方で、二日だけ土日でみんな集まって、職人もその日だけで、素人集めてやりましょうっていう、今のやり方にしたんですね。
だから結局美術に専門で関わっている人は修復活動には、ほぼ参加してなくって。結局そのイベントで告知したのと、ネットで呼びかけたりとかで。で、やってみたら集められた美術好きな子よりも、想いのある人たちが集まって、寄ってたかってやるほうがいいんじゃないのかなあって思ったんで、以後ずーっとそのやり方なんですよね。
―浅野祥雲さんの修復、すごいプロジェクトになってきてますよね。参加人数もすごく多いですし。
そうですね。毎回二日間やるんですけど、延べ百人くらいは。桃太郎神社の最初のときなんかは二百人くらいなのかなあ。お子さんも含めて、幅広い世代が集まってますよね。関東から毎回来てくれる子とか、広島から夜行バスで毎回来てくれる女の子とか、とうとう参加者の中で結婚しちゃった子たちがいたり。参加してくれる子たちは毎回半年に一回会うのを楽しみにしてて。やっぱりとってもニッチな嗜好なので、まわりにいないんですよ。ここに行けば俺と同じ趣味のやつがいるっていう。そういう人たちの場を作れたのは嬉しい。作品をきれいにできるのもなんですけど、僕はもともとそう人の上に立つ気はないと思っているので。でもあれは結果的にそうやって自分が興したことで、いろんな自分の関係ないとこで友達が増えてるっていう。おもしろいなあっていう感じなんですけど。
―活動への追い風みたいなものもあったんですか?タモリ倶楽部やパルコでフェアがあったりとか。
パルコのフェアはブックマークナゴヤの子たちが知り合いなので、こっちから働きかけました。五色園の活動から桃太郎神社に活動が広まったのは、名鉄のフリーペーパーに珍スポの取材の連載をしていて。読者の人向けのツアー、イベントやりましょうって名鉄の方が言ってくれたんで、桃太郎神社とかあの辺を巡る読者ツアーを一回やったんです。それが終わったあとに、名鉄の部長さんと昼飯を食べてて、「あの桃太郎神社、僕ずっと直したいと思ってて、宮司さんにも話してるんですよ」って言ったら、「おもしろい!やろうやろう!」って。犬山の観光協会の人呼んでくれて、そっからトントン拍子で。一週間後には名鉄行って打ち合わせしてって。