Uターン移住で地元の「余白」に居場所を見つけた〜第24回 はたらくインタビュー|ライター 南未来〜
第24回はたらくインタビューは、愛知県瀬戸市を拠点に活動するフリーランスのライター 南未来さんです。「ゲストハウスますきち」のオーナーである夫の南慎太郎さんとともに、PRチーム「ヒトツチ」として仕事をしています。
東京の出版社に勤めた後、神奈川県大磯町を経て、地元・瀬戸市へUターンした未来さん。なぜ東京へ飛び出したのか、どんなきっかけがあって瀬戸に戻ったのか。ライターとしての歩みと、現在大切にしている働き方、これからの挑戦など、お話を聞かせていただきました。
愛知県瀬戸市出身。高校卒業後、旅ライターをめざして世界を放浪。その後、東京・神保町にある小さな出版社で働き、フリーランスのライターとして独立。東京を拠点に10年ほど、旅や地域に関する媒体などで執筆。一度は神奈川県大磯町へ拠点を移し、2018年には瀬戸市へ戻る。地元に根を下ろし、PRチーム「ヒトツチ」では“つたえる”担当として活動。
旅好きが高じて、ライターの道へ
—いつから、ライターになろうと思っていたのですか?
高校生の頃からです。最初は、“旅”を軸に仕事がしたくて「旅ライター」をめざしていました。海外への憧れから、ガイドブックや旅行記など、旅に関する本をたくさん読んでいた影響が大きいのかなと思います。
はじめは欧米に興味を持っていましたが、本を読むことで、興味を持っていなかったアジアにも好奇心をそそられて。特に途上国では、観光地化した都市にはない体験や、常識を揺さぶられるような面白さと出会えそうだと感じました。本には、その土地のイメージを一新させる力があるんだなと思い、「私もこんな文章を書いてみたい!」という気持ちが湧き上がったのが旅ライターをめざした理由です。
一高校を卒業してから上京するまでは、どんなことをしていたのですか?
アルバイトでお金を貯めては海外へ旅に出るという暮らしを、約3年間続けていました。アジア、ヨーロッパ、アメリカなど、バックパッカーとしてあちこちへ。国内にいるときも旅気分を楽しみたかったので、リゾートバイトをして働いていました!
一その後、東京の出版社に就職したのは、何がきっかけだったのですか?
旅ライターになるにはどうしたらいいのか調べていたところ、出版業界に横入りするための案内本を見つけ(笑)、それを読んで、“大抵の本には奥付に出版社名が書いてあるのでチェックすべし”とか、“世の中には出版社から委託されて制作を行う編集プロダクションがある”ということを知ったんです。「とりあえず、出版社や編集プロダクションの多い東京に行ってみよう!」とあてもなく上京しました。
気になる会社に片っ端から連絡したものの、なかなかアルバイトも募集しておらず。そんなある日、愛読していた旅雑誌を制作する出版社が主催の、交流イベント告知を見つけました。編集部と直接会って話せるチャンスだと思い、「ライターの仕事がしたいんです!」と突撃。これをきっかけに、ゆるくアルバイトから働かせてもらえることになりました。
一それが、ライターとしての仕事のスタートだったのですね。
そうですね。神保町にある編集プロダクションであり出版社でもある会社で、編集者兼ライターとして働くこととなりました。編集・ライティングに関して“生き字引”のような知識を持っている社長がいて、しっかり鍛えていただけたおかげで今があります。私以外にもライター志望で働いていた人が多く、当時の会社は原稿道場のような場所になっていました。
旅雑誌に限らず、アウトドア雑誌、新聞、医療雑誌、企業のPR誌など、いろんな紙媒体に携わらせていただきました。今思うと、“書く”だけではなく紙面全体の構成を考える“編集”の経験を積むことができたのはとても良かったです。それが、自分で一からメディアを作るときにも役立ちました。
独立後、心惹かれた海辺のまちに移住
一会社を辞めてフリーランスになったのはなぜですか?
私はやっぱり、旅することを仕事にしたかった(笑)。せめて、取材でどこかへ行きたい。けれど、そもそも出版社での仕事内容は編集がメインで、取材・ライティングは外部ライターに委託することが多かったんです。編集は正直向いていなかったし、自分が取材に出て書くためには独立するしかない。約2年の会社経験を積んだ後にフリーランスのライターとなりました。
一その後、神奈川県大磯町へ拠点を移したのは、なぜでしょうか?
元々、都会への憧れがあったわけではなく、書く仕事ができるなら東京に住み続けなくてもいいかなと。当時は、東日本大震災後に東京から地方へと移住する人が増えていたタイミングでもありました。
瀬戸へ戻るという選択肢も浮かびましたが、地元で仕事があるのかもわからない状態。あきらめて、東京にギリギリ通えるくらいのエリアで住む場所を探しはじめました。仕事でいろんな地域を取材するなかで、ピンときたのが大磯。30歳の頃、直感に従い「行っちゃえ〜!」という勢いのまま引っ越しました。野生の勘みたいなものをなにより大切にしているかもしれません(笑)。
一住みたくなるくらい、魅力的なまちだったのですね。
大磯は、品川駅から1時間弱で行ける、「湘南発祥の地」といわれる海辺のまちです。月に1回、港周辺で「大磯市」というマーケットイベントが開催されていて、ワクワクする空気感に惹かれました。フリーランスなど個人で活動する人が多く、おもしろい人たちもいっぱい。ここなら東京に通って仕事もできるし、楽しい暮らしができそうだと思いました。
何が書きたいのか?答えは地元にあった
一惚れ込んで住んだ大磯を出て、なぜ瀬戸へと戻ってきたのでしょうか?
実家の母が病気になって、しばらく大磯と瀬戸を往復していたのですが、約2年間の闘病の末に母が亡くなってしまい……仕事への興味も失いがちになっていました。「今度こそ瀬戸へ戻ろうか」と、本気で検討し始めるように。
Uターンを意識した最初のきっかけは、弟からの「瀬戸でパン屋を開業するから手伝ってほしい」という連絡でした。そして、決め手となったのは、「ゲストハウスますきち」のオープンと、出会ってから2年後に結婚することになる南くんの存在です。
南くんに会って瀬戸の魅力について話したことで、「地元が変わっていくのかもしれない」そんな可能性が見えました。
しかも、1000年以上も歴史があるやきものの産地なのに、検索してもほとんど情報が出てこない。「瀬戸になら、私にしか書けないことがある!」と、33歳で地元へ戻りました。
一それまでは、やきものなどの地元の文化にあまり馴染みがなかったのですか?
私が生まれ育ったのは、新興住宅地として開発された団地。同じ瀬戸市内でも文化圏が違うエリアなんです。やきものの産地という実感は薄く、窯元関係の人とのつながりもありませんでした。
瀬戸に戻ってからは、ますきちのイベントなどを通じ、数多くの職人さんや作家さんと出会いました。“人”はもちろん、“まち”の風景にもやきものの産地をベースにした文化が紐づいていて。窯道具を積み上げた「窯垣」や、レトロな建物が残る商店街。何もないと思っていた地元も、大人になって歩いてみると、新鮮な驚きに溢れていました。
瀬戸に根を下ろして、“つたえる”を続ける
—心機一転、地元での再スタート。不安はありましたか?
地元に人脈は全くなかったので、ライターの仕事を続けられるのか不安はありました。でも、不安よりも期待のほうが勝っていましたね。
—実際に瀬戸に帰ってみて、仕事はあったのでしょうか?
なんとか、つくっていったという感じです。一番大きく意識が変わったのは、仕事は“もらう”ものではなく、“つくる”もの。これまでは出版社に仕事を依頼してもらうことを前提に働いていましたが、ここでは、むしろ自分がつくる側にならないといけない。
まずは、地域の人と直接関わり、ライターとしての需要を探しはじめました。最初の数年は、一から信頼関係を築き、何が求められているのか見出す過程に時間がかかりました。
先に瀬戸で活動していた南くんの紹介で知り合いがあっという間に増えたこととや、自分の書く文章を表現する場として、瀬戸のまち歩きエッセイ「ほやほや」を立ち上げたことで、文章を書いてほしい、というお願いをいただくようになっていきました。
一PRチーム「ヒトツチ」では、どんな仕事をしているのでしょうか?
「ユカイな仲間をつくる」をテーマに、瀬戸で新しく何かを始める人たちをサポートしています。
南くんは物事を立ち上げる、“はじめる”担当。私は立ち上がったことを発信する、“つたえる”担当。“書く”以前の課題解決に向けたスタートアップの部分や、経営面の管理は南くんが得意。ひとりでできることって、どうしても限られてくると思うんです。2人の持っている能力が全く異なっていて、両極端だからこそ良いバランスがとれています。
創業約100年の乾物屋「尾張屋」さんからの依頼では、デザイナーさんと協力してパッケージデザインとウェブサイトを制作しました。最近では、クラウドファンディングのサポートをすることも多いですね。江戸末期から続く窯元「瀬戸本業窯」さんが「瀬戸・ものづくりと暮らしのミュージアム」(瀬戸民藝館)を開館させるというチャレンジに携わりました。
一ますきちは来春のリニューアルに向けて改装中。また、瀬戸の案内本も来春に発刊するそうですね。
出版社を自分で立ち上げ、エッセイによるまちの案内本をつくります。紹介するのは、今だけの流行りの情報ではなく、数年後も変わらない瀬戸の魅力。地元で活動する人たちが大切にしている想いを伝えたいです。
—そのほか、これからやってみたいことはありますか?
このまちで自分にできることは何か、模索しながらチャレンジしていきたいです。“書く”ことを軸に、“つたえる”という枠をどこまで広げられるのか。直接話す場をつくる、映像表現をする、など“つたえる”手段はいろいろとあります。どこまでが果たすべき役割なのか、今も迷いつつ探っているところです。
瀬戸は、私にとってちょうどよい規模。人口は約13万人ほどで、けして多くはないけれど、少なくもない。でも、人のつながりはしっかりしています。魅力はたくさん眠っているのにまだまだ広く伝わっていないので、私の文章によって、まちが少しでも良い印象になる余地があると信じています。
今後も瀬戸を活動のベースにしながらも、来年以降は南くんと旅に出て、本を通じて瀬戸の魅力を伝える「行商」をする予定です。都市と地方ではなく、単純に個性ある地域と地域がつながって、何かおもしろい動きにつなげていけたらいいなと思っています。
はたらくことは、暮らすこと
―最後に、未来さんにとって“はたらく”とは何ですか?
日常の一部。普段の生活と地続きにあり、途切れず当たり前に続いていくもの。仕事=自分と言ってもいいくらい、暮らしの中心にあるかもしれません。
—悩みながら、何度も住む場所・はたらく場所を変えてきた未来さん。それでも、旅ライターをめざしていた頃から、“書く”ことで地域の魅力を伝えたいという根本は変わっていないように感じます。それは、遠い異国が舞台でも、身近なまちが舞台でも。これからの未来さんと「ヒトツチ」が瀬戸に何をもたらしてくれるのか、期待を込めて見届けていきたいです。—
取材日:2021年11月1日/取材・文・写真:齊藤美幸